AI・生成AI Anthropicはなぜ使い慣れたgitを捨てたのか。1日3万件のマージを支える自作システム「Scion」の仕組みを確かめる Anthropicは独自のバージョン管理システム「Scion」を開発し、5か月でgitから移行した。1日のマージ件数は2500件から3万件超に増え、インフラのCPU・メモリ要件は従来の200分の1に。開発の中身を確かめた
まず初めに
世界中の開発者が当たり前のように使っている道具を、よりによって開発したわけでもない一企業が「もう無理」と見限った――という話を聞くと、普通なら「君、何様だ」と言いたくなる。ただ今回に限っては、言い分にも一理ある。gitは元々「誰もがオフラインでも、分散したコピーで作業できる」という前提で作られた道具だ。ところがAnthropicの現場では、もはや人間よりAIエージェントの方が常時オンラインで働く主役になっていて、その前提そのものが壁になっていたという。1日2500件だったマージが、わずか4か月で3万件超。これは人間がボトルネックの会社の悩みではない。もっとも、一般の開発チームがこの話を読んで「我が社もgitを捨てよう」と思うのは早計だ。これは全人類に効く処方箋ではなく、AIエージェントが人間の6倍以上の数で働く、ごく特殊な現場のための特注品である。※個人の感想です
何が起きているのか
Anthropicは2026年10月13日(10月15日に追記)、公式の研究ブログで「Redesigning source control at Anthropic」と題した発表を行いました。発表元はAnthropicのエンジニアリングチームです。発表によれば、同社は独自開発のバージョン管理システム「Scionさいおん 」を構築し、約5か月でモノレポ をgitから完全に移行しました。同時期に、コードレビュー用のツール「Antique」、コード検索、ソース管理向けの権限管理(IAM)の仕組みなども整備したとしています。
移行の背景として、発表文はClaudeの登場によってコーディング自体がボトルネックではなくなった一方、ソース管理・ビルド・CIしーあい (継続的インテグレーション。コードの変更を自動でテスト・統合する仕組み)といった、人間の作業規模を前提に設計された開発基盤の方が追いつかなくなったと説明しています。具体的な数字として、1日あたりのマージ件数は2026年5月の約2500件から、9月には3万件を超えたとしています。モノレポのmainブランチの履歴は約100GB、圧縮した作業コピーは25GB超、CI向けのチェックアウト回数は1日あたり約2500万回に達していたといいます。従来は数百台のgitミラーを運用して負荷に対処していましたが、マージ量の増加に運用が追いつかなくなったとしています。
Anthropicが注目したのは、gitが「分散型・オフライン前提」で設計されている点です。実際の使われ方は、エージェントやジョブが常時オンラインで、権威あるサーバーが1つだけあるという形に近かったため、この前提そのものが規模拡大の妨げになっていたと説明しています。Scionは、クライアントが常時オンラインであることを前提に、履歴やマージといった計算をサーバー側に集約し、クライアントはローカルキャッシュと作業コピーの管理に徹するという設計を採用しています。基本単位は「changeset」と呼ばれ、gitのコミットがツリーへのポインタを持つのに対し、changesetは変更ファイル一覧とコンテンツアドレス指定のポインタを持つ構造になっているとしています。
なぜ重要なのか
今回の発表が注目される理由は、AIエージェントが主要な「利用者」になる開発環境において、人間の規模を前提に作られてきた基盤インフラそのものが新しい制約になるという、具体的な実例を示した点です。発表文は、各層のキャッシュ命中率が99%を超え、従来のgitミラー基盤と比べてインフラのCPU・メモリ要件が約200分の1になったとしており、CI単体でもCPU容量が25%改善したとしています。マージ量が10倍に増えた期間を、わずか7人のチームで乗り切ったという規模感も、AIを使った開発そのものの生産性を示す材料になっています。
もう一つの重要な点は、発表文自身が「Scionは一般用途のgitの代替ではない」と明記していることです。数万人規模のエンジニアや、大量のAIエージェントがコードを書く環境向けの特殊な設計であり、一般的な開発チームがそのまま採用することを想定したものではありません。*つまり、この記事を読んで自社のgitサーバーをいきなり捨てるのは早計、ということになる。*一方で、サーバー側のAPIを充実させる、疎・浅いクローンを活用するといった個別の工夫は、gitを使い続ける一般の開発チームにも応用できる考え方だと発表文は位置づけています。
私たちへの影響
Scionそのものは、現時点ではAnthropic社内向けのシステムであり、一般の開発者が直接利用できるという記載は発表文にはありません。そのため、日本の一般的な開発者やIT企業が今すぐ対応を迫られる話ではありません。
ただし、より広い意味では、AIエージェントが人間と同じか、それ以上の数でコードを書くようになったときに、ソース管理・ビルド・CIといった開発基盤そのものがボトルネックになり得るという教訓は、AIコーディングツールの導入を進める国内の開発現場にとっても参考になります。Claude Codeのような開発者向けAIツールを本格的に業務へ組み込む際、コードを書く速さだけでなく、それを受け止めるレビュー・テスト・統合の仕組みがどこまで耐えられるかを、早い段階で検討しておく価値があることを、今回の事例は示しています。
初心者が知っておくべきこと
「バージョン管理システムばーじょんかんりしすてむ (VCS)」とは、ソフトウェアのソースコードの変更履歴を記録し、必要なら過去の状態に戻したり、複数人の変更を統合したりできるようにする仕組みです。「git」は、現在世界で最も広く使われているバージョン管理システムの一つです。
「モノレポ」とは、複数のプロジェクトやサービスのソースコードを、分割せず1つの大きなリポジトリ(保管庫)にまとめて管理する開発手法のことです。「マージ」とは、別々に行われた複数の変更を1つのコードベースに統合する作業を指します。「CI(継続的インテグレーション)」とは、コードの変更が加えられるたびに、自動でビルドやテストを実行し、問題を早期に見つける仕組みのことです。
Q. Scionは一般の開発者も使えるようになりますか。
A. 発表文には、一般公開や外部提供についての記載はありません。現時点ではAnthropic社内向けのシステムとして説明されています。
Q. 自社でgitを使っているチームも、同じ問題にすぐ直面しますか。
A. 発表文は、Scionが数万人規模のエンジニアや大量のAIエージェントが同時にコードを書く、特殊な規模の環境向けだと説明しています。一般的な規模の開発チームが同じ問題にすぐ直面するとは、発表文からは読み取れません。
Anthropicの研究記事のヘッダー画像。 画像提供:Anthropic
IT Postの見方――「かっこいいエンジニアリングだが、全員が真似する話ではない」
IT Postとしては、7人のチームが5か月でモノレポを丸ごと移行し、その間にマージ量を10倍に増やしたという話そのものは、素直に大したものだと思う。インフラのCPU・メモリ要件が200分の1になったという数字も、誇張ではなく実際の運用上の効果として重く見ていい。
一方で、この手の「我々はAIの速度についていけないほど進んでいる」という発表には、ちょっとした自慢げな空気がつきものだ。実際、発表文自身も「これは一般用途のgitの代替ではない」とわざわざ釘を刺している。IT Postとしては、この釘刺しの部分こそ、読者にとって一番大事な情報だと思う。AIコーディングの話題が出ると、つい「うちも今すぐ何か変えなければ」という空気になりがちだが、Scionは数万人・大量エージェント級の特注品であり、大半のチームにとっての教訓は、ツールそのものを真似ることではなく、サーバー側に計算を寄せる、疎なクローンを使うといった「考え方」の方だろう。※個人の感想です
今後どうなりそうか
発表文は、Scionの外部提供や詳細な技術文書の公開については言及していません。Anthropicは今回の移行で得た知見として、エンジニアの役割が「全行レビュー」から「変更の意図を確認する」方向に変わったことや、障害検知にClaudeを使う運用の高度化についても触れています。IT Postでは、Scionに関する続報や、同種の取り組みが他のAI企業からも発表された際に、あらためて取り上げます。